Thomas Demand/トーマス・デマンド

Thomas Demand/トーマス・デマンド
発表者:百瀬文


トーマス・デマンドは、1964年ミュンヘン生まれの、ベルリン在住のベルリン在住のアーティストである。世界各国で展覧会に多数参加し、2003年はヴェネツィア・ビエンナーレにも出品。来年は日本の現代美術館で展示が決まっている。

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彼の作品は写真作品である。初めて彼の写真の前に立つ者は、まずその報道写真のようなごく何気ない風景と向き合うことになるのだが、やがてその風景のテクスチャーが奇妙にのっぺりとしており、極端に無機的なものとして映る事に気がつくだろう。実は、彼のこれらの作品は全て彼が自分の手で制作した厚紙やボール紙によって出来た実物大の模型を撮影したものなのである。彼の作品の元となる写真イメージは全て実際に存在する事件の現場写真や報道写真の中から選ばれている。言わば彼が扱うイメージとはすでにレディメイドであり、そこでは意図的に作者の演出や介入が回避されている。そこからデマンドはその選ばれたイメージ(ほとんどは建築空間である)を元に、もう一回その空間を紙で実物大の大きさで立体的に再現し撮影するわけだが、それはオリジナルである現実風景に対し、フェイクとしての模型空間を作るという目的のためではない。
いわばその最終的に出てくるイメージの中では、本来その実際の現場にあった人の痕跡やちいさな傷など、様々なノイズがきれいに脱色されているのだ。私たちは、そのようなノイズが取り去られた後の空間をシミュレートしたどことも言えない空間を前に、そのような再構成を行ったデマンド自身の意図と、その結果としての画像だけに直面することになる。それはオリジナルに対するフェイク制作ではなく、オリジナルの漂白作業なのである。
しかし、彼の写真における興味深い点とはそこだけではない。精巧につくられた模型を写した写真には、よく観察しないとわからない、紙と紙とのつなぎ目や、ゆがみ、ズレなどが写されている。そのような紙の模型のなかで起こっている物質的な現象は、それは「ノイズ」と言えはしないだろうか。そしてそのノイズによって私たちはそれが「紙で作られているにせもの」であることを知ることが出来る。その瞬間に、この写真は全てを監視している者、つまり作家のたくらみで満たされていることに気づかされるのだ。
しかしここで興味深いことは、そのノイズに気づき、それが紙で作られているとわかった後においても、同時にそれが先ほど述べたような、当時の血なまぐさい事件の傷跡や人の痕跡といった「ノイズ」が取り去られた、漂白された風景を成立させているということではないだろうか。つまりノイズを上書きすることでノイズを消し去る、という逆説的な論理がここでは成り立っているということになる。
これはデマンド本人の言葉であるが、彼はまず「対象を対象として尊重」し、原寸大のモデルを構築する。そしてデマンド自身の経験を適用しながら、事物の形とサイズ、それに細部を決めていくという。そして、「モデルに対してある意味で全能者のように振る舞うことが出来る」と彼は言う。「だから重要な細部、微妙な細部を一般化(抽象化)しすぎることもある。」という。
デマンドの写真はたくらみに満ちている。何気ない場所だと思って私たちが見る写真は、すべてデマンドによって選択され、漂白された筋書きである。かつて写真とは現実世界をのぞくための窓として機能するためのものだったかもしれない。しかし彼が暴きだすのは、「私たちがいかにそこから疎外されているか」である。私たちはその場所を追体験することはできない。私たちはなにもそこから物語を読み取る事の出来ない、「現場の亡霊」の写真の前になすすべもなく宙づりにされるのだ。
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名和晃平/岩槻さん

書記の内田です。今回は会話中に出てきたいくつかの疑問に下線をひいてみました。それについての回答、見解、参考になる資料、文献等ありましたら、書き込みよろしくお願いします。感想や言い足りなかったこと、この文章内で間違ってること、補足等もよろしくお願いします。

名和晃平(なわ こうへい)

↓Beadsシリーズ
「対象となる物体の表面を透明のガラスビーズで被覆することで、物体そのものの存在を「光の殼」で置き換え、「映像の細胞」(PixCell)という新たなビジョンを提示する。
動物の剥製はすべてインターネットで収集。オークションサイトを検索し、モニター上にPixelとなって登場するイメージのなかから選ぶ。しかし、購入して実際に送られてきた本物の剥製は手触りや臭いが生々しく、イメージとのギャップがある。それらを今度はPixCellに置き換えていく。」(作者HPより)
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↓Prismシリーズ
「光の方向を二つに分けるプリズムシートによって異なった角度(両眼の視差も含まれる)から見えるはずのイメージが現れ、箱の中に存在するはずのオブジェが虚像として漂う。」(作者HPより)
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名和晃平ホームページはこちら!

名和晃平について岩槻さんより
・「情報化時代の虚像と実像」をテーマにしているので私たちのテーマと重なるところがあるので題材にとりあげたい。
・Beadsシリーズのコンセプトは、まずインターネットで「剥製」と検索をかけてネットを介して剥製を購入する。=ピクセルのイメージの剥製を買う、ということになる。
・「剥製」と検索をかけると、同じ格好をした鹿の剥製が大量に出てくるのに気づく。そこには、鹿の石膏型に鹿の表皮を貼っていくという、システム化されたビジネスが存在していた。
・Prismシリーズは、実際の物質(狼や、シマウマや、フランスパン等)が四角いアクリルの中に入っているが、視覚的な効果によって、周囲をまわって実像をとらえようとしても、そこに物体は存在しないかのような、意味や象徴があやふやになっていく印象を受ける。

名和晃平について会話中より
●コンセプトと作品の関係について
・コンセプトの文章と実物から見えてくる意味が違う気がしてもやもやする。→実物を見るとマテリアルの意味が大きく感じられてしまい(例えば「鹿という生き物がビーズでがちがちに固められてる」みたいな印象)、そこから名和さんの言う、「虚像と実像」についてのコンセプトは感じられがたい。
作品から作者の意図するコンセプトが感じられず、文章で説明されることによって理解される作品ははたして良いものなのか。→それすらもコンセプトなのか。
物体でないものを物体化したいという欲求を感じる。→立体なんだけど、半立体。
 →例えば人間は太陽(実像)があるのに、光(虚像)をつくりたがる。人間のこの欲求は何なのか。
・素材との関係性、素材の必然性が薄く感じられる。本当にこのビーズの表現がピクセルの表現の最適な表現なのか。その疑問が商業的な印象へと繋がる。
・モチーフの選び方について、鹿は普段目にすることの少ない、私たち一般的な人との関係性の薄い物だが、Prismシリーズにあったフランスパンは私たちにとって身近なもので、かつ、食べ物をネットで購入するという違和感に考えさせられるところがあるが、その鹿とフランスパンなどの、モチーフの選び方にある一貫性、共通性とは何なのか。
・インターネット等の"メディア"と無理矢理からめている感がある。→それをコンセプトに組み込まないと認められないというアートのルールがあるのか?

●作品について
・ビジュアル的な美しさにこだわっている気がする→商業的な匂いを感じる。
・方法論の理屈で構成されている。
・綺麗だからどうしたの?→美術作品にとって美しさとは何なのか。美しさに対しての皮肉もあるのだろう。
・パロディ的な要素もあるのでは?リメイク。ユーモラス。(ダミアン・ハーストみたいな関係性が想起される。CGアートの懐かしさを感じさせる。)
・表皮、といえば幸村真佐男を思い浮かべる。→幸村真佐男総合研究「第三の皮膚」論
山口勝弘(内田はこの人についてあまり詳しくないので、誰か知っている人がいましたら補足お願いします!)
・鹿と名和さんの関係が見えない→本人のリアリティを感じない。→それもまたコンセプトの一環なのか。
・名和さんは生物に興味があるんだなと思った。
・細胞、アメーバ的な印象から動いている物質が好きなのではないかと感じた。


●新しさ、ということについて
・新しい素材や新しい技法が特徴的だが、それらは少し経つとすぐ古いものになってしまう。→例えば40年前のコンピュータは400年前のものより古く感じる。それは、40年前のコンピュータというものは物として常に完成していないもの、常に未完成のものであるから。→普遍的なもの、変化するものの差とは何か。また、新しさの価値とは何か。

●作家自身について
・どの部分が評価されているのか。
・美術界のスターを作り上げる為に、周囲に祭り上げられた感がある。
・Beadsシリーズでもっている気がして、今後の展開をどうしていくのかが気になる。
・オークションにけっこう作品が出品されている。買いやすさ、売りやすさ等もコンセプトの一部なのか。
・一般の方々にも理解しやすいコンセプトやキャッチーな実物なのが、彼を有名にしたゆえんなのか。そこを最初からねらっているのか。

ズジスワフ・ベクシンスキー / 松下広樹

ズジスワフ・ベクシンスキー(Zdzisław Beksiński)

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ズジスワフ・ベクシンスキーwikiはこちら!


ベクシンスキーについて松下くんより
・死や、絶望、廃退などを題材にしているが、作品はすべてタイトルをつけていない。
・今は人間は存在しているが、最後は彼の作品のよう世界は終焉をむかえるのではないか。
・現実をつきつけてくれるエネルギーを持っている人。未来予想図を描いているようだと思った。


ベクシンスキーについて、会話の中より
・ポーランド生まれ。子供の頃に戦争を経験している。人の死をたくさん見ているだろう。
・画家になったのは1940年代から。戦争が終わってすぐ。
・初期作品は緻密さを嫌い、抽象的な表現をしていたようだ。それらが参考作品の中に見られないのは、本人が燃やしてしまったらしい。
・世の中を支配しているのは幸福より不幸であり、結局のところ最後に我々を待ち受けているのは死でしかないと気づいてしまった。(参考画集文章より抜粋)
・音に敏感なのでは?)彼は静寂を嫌っていた。ニュートラルな音を必要としていた。(参考画集文章より)
・十字架の表現を多用しているので、キリスト教の宗教感も絵に反映されているのでないか。
HR gigerを想像させる。gigerの方がエロティック。
ナム・ジュン・パイクを想像させる。同じ時期のサイケデリックなアーティスト。
(67年に書いたナム・ジュンのエッセイはおもしろい)


ベクシンスキーの作品についてのみんなの意見
・戦争などリアルな死への経験をしているにも関わらず、作品は人がけっこう想像しやすそうな死のイメージ、例えば骨や、ドクロや廃墟など、などという共通言語的なモチーフを扱っている印象をもったので、本人オリジナルの経験を絵から感じないと思った。
 に対して、↓↓↓↓↓
では、リアルとは何か。→本人が感じているものを出しているんだという感じ。作者なりの経緯。
・ベクシンスキーよりgigerはイラストチックだと思う。こうゆうように描こうという意思が見える。
 に対して、↓↓↓↓↓
「絵画らしさとイラストチックに見える差は何なのか。」
・既視感がある。
 に対して、↓↓↓↓↓
彼の作品のようなものから、既視的なものが生まれてきたのではないか。rpgゲーム。アニメ。漫画。
・死や絶望を題材にはしているものの、人間の表現をみると、人間への愛を感じる。戦争などの悲惨なことを経験し、それもまた人間の欲によるものにも関わらず、それでも尚人間を愛さずにはいられない作者の苦悩を感じる。

20111011トーマスルフ

(書記の高橋です。今日の授業内容をまとめようと思ったのですが、ノートを大学に忘れたので、覚えていることだけ、箇条書きでフィードバックしたものを仮に載せています。ちゃんとしたものは明日掲載しなおすので、これを読んで気づいたことや授業で言えなかったことなどがあればコメントよろしくです。すいません><)

今日は西川さんの紹介したトーマス・ルフを取り上げました。
トーマス・ルフの「星」シリーズから「交通手段や情報つ新技術の発達によって、我々のリアリティはどう変わったか」という話題に・・・
ルフはありのままの生活空間を被写体にした「インテリア」シリーズから、出来るだけニュートラル(白バック、無表情、正面)に人物を撮影し、無個性な写真が却って被写体の個性を浮き彫りにする「ポートレイト」シリーズに移行。「ポートレイト」シリーズが「ファシズム的だ」との批評を受けて、より「ファシズム的に」と既存の写真からピックアップしたポートレイトをデジタル加工し、目の青いポートレイトの「ブルーアイズ」シリーズを発表。結果、ファシズム的というよりは、現代の遺伝子操作に似た行為となる。その他、報道写真のキャプションを外し「報道写真は報道写真になりえるのか」を問いかけた「報道写真」シリーズ、インターネット上のポルノ画像を加工しインクジェットプリントで出力した「ヌード」シリーズ、カラーコミックを拡大した「基層」シリーズ、肉眼では見ることのできないものを現代の科学技術によって撮影した写真を使った「星」シリーズなど。

※「ヌード」シリーズについて
なぜポルノ写真を取り上げるのか
アンディ・ウォーホル
-同じ(または似た)イメージが連続することでイメージの持つ意味が消失する

※写真と絵画
写真の出現による絵画の変化
絵画に依存しない写真のあり方、写真のモダニズムとは

※自分で撮影した写真ではなく報道写真やインターネット上の画像を使い作品化することについて
絵具もまたレディメイドである(デュシャン)
デュシャン以降はすべての作品がレディメイドになってしまった(リヒター)
逆に「自分がつくった」作品はどこまでが「自分がつくった」と言えるのか


※人は目ではなく、脳でものを見ている。機械は目(記憶)を代行する。

※絵画、美術史へのオマージュ?パロディ?
写真や画像をキャンバスにインクジェットプリント出力/展示形態は額装に壁面展示
絵画(油絵)は木枠に張られたキャンバスに絵具が付着した物体である。しかしながら、絵を見ようとするとその物質性は見えなくなり、物質性に着目すると絵は見えなくなる。

※著作権/肖像権について
カオス・ラウンジ騒動
ながさわたかひろのプロ野球シリーズにおける野球選手の肖像権

国によって違う、著作権/肖像権の保護
厳しい規制は表現の可能性の幅を狭めている?

※「報道写真」シリーズについて
モナリザもヒットラーも同一線上にいる
報道写真は、撮った人も、撮られた年代も場所も、被写体もバラバラ。ピックアップして同じサイズで並べることによって、時間・空間もバラバラのところにある被写体が同一線上に並ぶ。


※絵画?写真?に対する屈折した愛?
「写真とは何か」について問いかけている?

※科学技術の発達や文明の進歩によって、私たちはかつて見えていたものも、機械の介入なしには見えなくなってきている
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