長谷川豪

大学院1年 建築コース 鎌田暁

大変遅れてしまい申し訳ありませんでした。

建築家長谷川豪の展示「スタディーとリアル」の文章の和訳と、長谷川豪の紹介文、感想文です。

Study in Real

To me, creating architecture is the act of studying reality and expanding its boundaries.

Even after majoring in architectural design at university, getting practical experience at an architectural firm, and beginning my own practice, rather than feeling as if I had finished learning, the need to study became even stronger as I considered and created my buildings. Learn and study are similar words. "Learn" suggests being taught and acquiring a certain skill, while "study" refers to the act of examining something. The word "study" also includes the nuance of active engagement. It suggests research, effort, and artistic studies. In the architecture world, it is used to mean the trial manufacturing of a design through models, but the act of objectively gazing, thinking, modifying, and cultivating an idea that you have devised is truly a process of active study. Cultivating an idea is also a means of developing yourself. In a semi-conscious state, you transcend yourself through the reality of a project, and attempt to discover a new you. Once you get to that point, you have the sense that a previously unimaginable, new reality has emerged. Studying reality and expanding its boundaries are two sides of the same coin.

For this exhibition, I have begun an architectural expansion of a kindergarten in the city of Ishinomaki, which suffered extensive damage in the Great East Japan Earthquake, which occurred in March 2011. After the extremely small building I have designed is erected in the gallery's courtyard, it will be moved to the school in Miyagi Prefecture after the exhibition has ended.

We now know that in the face of an unforeseen disaster such as an earthquake, it is difficult to deal with the situation through learning alone. Of course, this is also true of other situations. It seems to me that in addition to repeatedly questioning many different aspects and pursuing a wide range of real projects, study is an indispensable part of our era, defined as it is by a sense of complexity and uncertainty.

The act of studying improves the quality of creation. In this exhibition, I hope to present the consistently real and studied responses that I have used in my projects of the past and my current project in Ishinomaki.


スタディとリアル

僕にとって建築をつくることは、現実に学び、現実を押し広げることである。

大学で建築の設計を学び、設計事務所で実務を学び、自分で設計活動を始めても学ぶことが終わらないどころか、建築を考え、つくるうえで、学ぶということがますます切実なものになった。「学ぶ」には、LearnとStudyがある。Learnは教えを受けて修得するという意味であるのに対し、Studyは「学ぶことそのもの」を意味する。能動的なニュアンスがStudyには含まれているようだ。研究とか努力とか習作といった意味ももつ。建築の世界では「スタディ模型」など設計のなかでつくられる試作という意味で使われるが、自分がつくった案を客観的に眺め、考え、改め、育てていく行為は、まさに自ら能動的に学んでいくプロセスでもある。自分の案を育てると同時に、自分自身を成長させようとしている。なかば無意識のうちに、現実のプロジェクトを通して自分自身を乗り越え、新たな自分を開こうとしている。そこまで来てようやく、思いがけない新たな現実が立ち現れてくる気がする。現実に学ぶことと現実を押し広げることは表裏一体だ。

この展覧会を機に、東日本大震災で被害を受けた石巻市のある幼稚園に建築を贈るプロジェクトを立ち上げた。とても小さな建築を設計し、TOTOギャラリー・間の中庭に建て、会期後にそれを幼稚園に移築する。今回の震災のような「想定外」の前では、修得したこと=Learnだけで対応することが困難であることを僕達は経験した。震災に限ったことではない。複雑で不確かな時代だとされるいま、その都度問いを繰り返しながら現実のプロジェクトに自ら迫っていくという姿勢、Studyが不可欠なのではないか。

学ぶということが、現実につくることの質を高めてくれる。展覧会では、僕がこれまで設計してきたプロジェクト、および石巻のプロジェクトにおける、StudyとRealの絶え間ない応答を見てもらいたいと思う。


作家研究1


ギャラリー間の屋外展示場にある時の鐘楼。
1階の部屋は観客が座り、2階は塀の外を覗く展望台になっている。



石巻鐘楼


保育園へ移築した後の鐘楼
ここでは1階が子供達を迎えにきた親たちの憩いの場になり、2階は子供達の秘密基地になるという。4階に据え付けられた鐘は、ある時間になると子供達により鳴らされる。街の未来である子供達が力強く鳴らす鐘の音は、震災で被害を受けた街に未来に向けて進んで行こうという勇気を与えるだろう。






ここからは、和訳した文章の筆者である建築家、長谷川豪の紹介をしたいと思います。

長谷川氏のデビュー作「森のなかの住宅」(2006年)は、家型の住宅であるが、切妻屋根の下に並べる7つの部屋もまた切妻型の天井である。屋根と天井の間の小屋裏を上空の光や風景を各部屋に運ぶ深い窓として捉え、家型という馴染みのある形の中に「斜め上」の意識の広がりを創出している。


作家研究4


作家研究2


森のなかの住宅
(2006年/長野県北佐久郡)
©長谷川豪建築設計事務所


続く「桜台の住宅」(2006年)では、4m角の大きなテーブルを住宅の真ん中につくる。これを全面トップライトの、個室に囲まれた明るい大きな余白として捉え、各個室にとって家具でもあり、庭でもあるという、個室とリビングの新しい関係性を提案している。


桜台の住宅


桜台の住宅
(2006年/三重県)
©新建築社写真部


「練馬のアパートメント」(2010年)では、集合住宅の各住戸に大きなテラスを併置する。L型、細長、縦長など個性的な形の半屋外空間が各住戸を特徴付けている。テラスとインテリアを等価に扱いスタディすることで、厚い外壁や戸境壁が塀のような軽いものの様に変容してきて、各住戸が敷地の中に孤立して建つ戸建住宅のような存在感となっている。都市の気配を集合住宅に取り込んだ作品となった。


練馬のアパートメント


練馬のアパートメント


練馬のアパートメント
(2010年/東京都練馬区)
©Iwan Baan


また、「森のピロティ」(2010年)は、6.5メートルの階高であるピロティの上の居室を9本の細い柱で支えている。このピロティは森の中の広場のような半屋外空間になっていて、森の縁が、まるで壁のようにピロティを包み込み、周辺の森と建築とを融合させている。空間のプロポーション、柱や梁のサイズと間隔、階段の位置のスタディを積み重ね、ピロティの解放感と囲まれ感、自然との連続性と空間の自律性の緊張関係を造り出した。住み手と建築、建築と周辺環境の関係を心地よくつなぐ空間を実現することで、高い評価を受けている。


作家研究5


作家研究6



森のピロティ
(2010年/群馬県吾妻郡)
©新建築社写真部


建築家長谷川豪は、建築を設計する時のテーマに、「余白」の空間を据えている。その「余白」の空間には、ある種の匿名性が備わっている。その空間を使う際は、見るものや住まい手の想像力を喚起させ、受け取り方の選択肢を広げる等の、場所と人がコミュニケーションをするという側面を持つ。
そんな空間が、長谷川豪の建築の中に生まれてくるには、彼の設計の仕事が都市部に集中していることに関係している。都市の中で建築をするという事は、場所やクライアントなど、考えれば考えるほどに情報量が多くなって複雑になっていく。建築とは、その中で解決される情報が多ければ多いほど良いとされるが、それらの条件への対応をただ積み重ねていくだけでは、鬱陶しいものになってしまう。そこで、この「余白」という空間は、そういった複雑な条件を解決するために用意する。また、それと同時にそこから一歩外へ出て、外側から見るような視点が住宅の中に欲しかったという。つまりそこでは、他の室内との関係性が変質し、自由になるような空間である。

だからこそ、そのスペースの捉え方次第で、家と人との様々な関係性が生まれてくる。それにより、余白の空間だけでなく、家自体や、周りの一部屋一部屋の意味上のスケールが変わるのである。

例えば、「森のなかの住宅」であれば、「小屋裏」が「光や風景を運ぶ深い窓」と意味を変える。
「桜台の住宅」であれば、「真ん中の大きなテーブル」が、「家具や庭、部屋」となり、
「練馬のアパートメント」であれば「マンションの各住戸」が「敷地に孤立して建つ戸建住宅」、
「森のピロティ」であれば、「森の木々」が「壁」、「ピロティ」が「森、部屋、」等となる。
その場所は、機能的な意味合い以上に、同じ場所でありながら、様々な空間体験が可能で、日々新しい空間の魅力を産み出していくためのものでもある。

自分も、周りの空間に変幻自在な空間性を産み出す「余白」という空間に興味をもっている。それはまるで、舞台のように様々な見せ場を造り出し、建築を物理的なスケールから解き放ってくれるものである。自分もこの、意味上のスケールの扱い方を自分の制作活動で伸ばしていこうと考えている。




スポンサーサイト

石上純也


大学院1年 建築コース 藤巻直樹

授業内で発表できなかったので、ここで石上純也について述べようと思います。遅くなってしまい申し訳ありません。

石上純也(1974 - )
日本の建築家であり石上純也建築設計事務所主宰。神奈川工科大学KAIT 工房で日本建築学会賞、ヴェネツィア・ビエンナーレでは《アーキテクチャー・アズ・エアー》で金獅子賞など多数受賞。「建築はどこまで小さく、あるいは、どこまで大きくひろがっていくのだろうか?」、Another scale of architecture 展など多数の展覧会も行なっている。

アーキテクチャー・アズ・エアー
《アーキテクチャー・アズ・エア》(2010)幅と高さが約4メートル、奥行き約13メートルもある建築物でありながら、そこに存在しないかのように空間に溶け込む。朝霧のように儚い建築であり、建築と空間が曖昧にまざりあっている。建築に極限までの透明性、空気のような存在感になっている。

テーブル
《テーブル》(2005)9.5m×2.6m×1.1m の大きなテーブル。小さな建築をつくるように大きなテーブルをつくられている。設置前の天板はこぶたのしっぽのようにまるまっていて、脚はバナナのようにそっている。曲率などは構造解析をして決めている。 厚みは3mm で薄い紙のようにやわらかいが、かたちを保っている。少しさわると天板は水面に波紋が広がるように波打ち、液体のようにもみえてそこにのっている静物が浮いているようでもある。

ガラスのシャボン玉
《ガラスのシャボン玉》(2011)ガラスの板を内部圧によって宙に浮かせたドーム。9 メートル四方の正方形のガラス屋根は、床とのすき間にコンプレッサーで継続的に空気を送風され、 内側からの空気圧により、 気圧を一定に保たれている。しなやかに床の上で風に舞うシャボン玉のようにたわむ姿は、ふとこれが硬質なガラスであることを忘れてしまう。脇には、ケーススタディーの痕跡である割れたガラスの残骸が薄氷の破片のように重ねられている。

四角いふうせん
《四角いふうせん》(2007)高さ14m、幅13m、奥行7m の4階建てビル相当の巨大な金属の風船。1t の重さと同じ浮力で自重を打ち消す量のヘリウムが充墳されている。絶えずゆらりゆらりと動きながら、見ている人間が自分自身を映し出し、また周りを映し出して変化していく。

 石上純也は空間を変容させるという意識を、見るものに与えることが「建築家」であるという確固たるビジョンを持っている建築家である。今回は石上純也の建築作品ではなく、より実験的なプロジェクトを取り上げた。それは空間を変容させる、という石上純也の作品の中で、重要なことのひとつに微細なスケールの操作とその限界への挑戦ということがあげられると思ったからである。作者本人の言葉にも「いままで建築が備えることができなかった、できる限り多くのスケールを建築のなかに含めてゆくことはできないだろうか。建築の概念を広範にすることによってより多くのスケールを建築のなかに含めることができるかもしれないし、逆に範囲を変えなくても、さまざまなものをできるだけ小さく低密度にしてゆくことで、できるだけ多くを建築のなかにとりこんでいくこともできるかもしれない……」とあり、スケールというものがとても重要なものとして作品に反映されている。
 アーキテクチャー・アズ・エアでは0.9mm の圧縮材と0.02mm の引張材によって建築が建築として存在できる臨界点に迫っている。人が知覚する限界のスケールを探りながら、同時に構造体として成立させている。テーブルは、スケールが一般的なテーブルと比べるととても大きい。そのうえ材がとても薄い材でつくられている。触れると水紋のように揺らぐテーブルは、テーブルとしては使えない。しかしそれは私たちが知っている一般的なテーブルの成立条件のひとつにしか過ぎず、4 本足に支えられた四角い水平面という条件を成立させることで、テーブルをテーブルとして概念的に成立させている。また、ガラスのシャボン玉や四角い風船についてもスケールのおおきなものに操作を加えることで自立させ、同時にそのおおきなスケールのものを揺らがせるような自立条件を選択している。ガラスで出来ている巨大なシャボン玉がたわむ様子や、1t もの重さの風船が浮遊する姿を目の前にしたとき、その成り立ちは理解できるのに、スケールの操作によってなにか不思議さを残す。気に止めないと気にならないが、気が付けば空間全体のスケール感が一気に変わる。 石上純也は複雑化している建築の成立条件を解きほぐし、それを再構成することで建築のあり方を再定義している。

新国誠一

大学院 油絵学科 1年 小林礼佳

新国誠一を紹介します。
1925年、新国誠一は仙台で生まれる。1952年詩誌「氷河」の同人となり、詩人としての活動を本格的に開始する。その後、「氷河」を脱退し「文芸東北」の同人となる。その頃から「象音詩」に繋がるものを発表する。1963年に刊行された『0音』では、はじめて「象形詩」「象音詩」という概念を提示する。しかし新国がやっていたことはアルファベット語圏のコンクリート・ポエトリーとほぼ同じ方法にたどり着くことになる。コンクリート・ポエトリーとは、「視覚詩」とも呼ばれ、文字や色面で表現される詩のことである。海外の動向を知るうちに目指す世界のあまりの類似に衝撃をうけ、国際的な運動に身を投じるようになる。1964年には「芸術研究協会(ASA)」を結成し、同名の機関誌を発行しながら世界各地の展覧会に参加する。世界的に重要な詩人の一人として位置づけられており、日本やドイツの教科書などにも作品が掲載されている。

右 窓  左 空隙
新国誠一 作品4_convert_20120114182130_convert_20120114185556


例えば「窓」(上の右)という作品では目、首、見という漢字を使いながら形を作り、違う意味に置き換えてしまうのが面白いと思った。同じ言葉や漢字をつなげると漢字の意味が抜き取られ、違うものに見えてくる。「空隙」(上の左)は字と図の関係を気にして作っているのがわかる。漢字の隙間に着目して空間を作るという発想が面白い。「さみだれ」(下の右)と「悪魔払い」(下の左)では、密集して言葉を配置するか、間隔をあけて配置するかで空間の大きさも変わる。
漢字は一文字だけで自立するが、組み合わせ方や並び方で他の意味も含ませたり、逆に意味を抜き取ってしまうようなことをやっている作家だと思った。

アニッシュカプーアの作品におけるスケールとその変容/ 風早小雪

版画院2年風早小雪です。
9月に発表したアニッシュカプーアについてまとめました。
当時はブログが無かったので、発表の履歴が残っておりません。
時間が経ってしまったので、少し記憶が曖昧ですが、よろしくお願いします。

---------------------------------

アニッシュ・カプーア

インド出身の現代彫刻家
作品はシンプルな形状の立体であるが、表面に光を反射する金属や光を吸収する染料などを用いている。


01 深い顔料の色で鑑賞者を惹き込む作品

初期は、立体の表面を顔料で覆う作品を多く制作し、次に岩盤のような床に切り込みや穴を開け、内部を顔料で覆うことにより洞窟の入口や大地の亀裂を思わせるような造形物を作るようになった。

kappor01

kapoor2


02 顔料を使った作品から、金属等の周りの風景を映し出す素材を作った作品へ

kappor05

kappor06
シカゴの市街地 「クラウド・ゲート 」

kapoor06


作品は、表面に光を反射する金属や光を吸収する染料などを用いており、非常にシンプルな形や素材から宇宙的な広がりを形成し、展示空間そのものを異空間に変換してしまう。
また、周りの風景を映し込むため、見る人、見る角度、見る時間等によって全く違う作品になる。
どこからどこまでが作品なのか、作品のスケールが曖昧になる。

03 神話世界や哲学的な考察から派生したコンセプトの作品

kapoor07

kapoor08
テートモダン(ロンドン) 「Marsyas」

作品名でもあるマルシュアースはギリシャ神話に出てくる登場人物の名前である。
アポローンとマルシュアースは音楽で対決し、勝者は敗者を自由にしていいという条件で勝負した。
勝負に負けたマルシュアースは、プリュギアのカレーネーの洞窟で生きたまま皮剥ぎの目に遭った(傲慢の罪・ヒューブリス)。その時の血は河となりそれがマルシュアース河である。

この作品はマルシュアースの血や河(皮)を連想させる。テートモダンのスペースをふんだんに使ったスケールの大きい作品である。

kapoor09

kapoor10

kapoor11
Royal Academy of Arts ロンドン「隅への射撃」 2008-2009年

ロンドンアカデミーでの個展の作品、赤いワックスで作られた車両は、ロンドンアカデミーの壁や扉をかすり、赤い跡を残しながら少しずつ移動する。巨大な大砲からは20分に一度ワックスの固まりが放たれ、そのパフォーマンスはワックス30トン分続く。
血糊のようなこれらの赤い作品は大量虐殺等を彷彿とさせる暴力的な作品。
ロンドンという場所性やイギリスによるインドの植民地支配の歴史等の関連を連想させる。

kapoor12
kapoor13

グラン・パレ(パリ) 「Leviathan」
http://www.marthagarzon.com/contemporary_art/2011/05/monumenta-2011-leviathan-anish-kapoor/
2011年の5月から6月にかけてグラン・パレで展示されたインスタレーション作品。
リヴァイアサンは、旧約聖書に登場する海の怪物。
全てを飲み込む地獄の釜とも。この作品においては、観客は展示の順路において、作品の内側、外側を両方体験することができる。リヴァイアサンの体内と外を体感させる作品。

これらの視覚的、体験的な作品は神秘や官能といった原初的な感覚を沸き立たせている。



カプーアの作品は、初期は室内に展示できるサイズの彫刻作品が多いが、近年は空間そのものを変え、体感できるような巨大な作品が多くなってきている。


カプーアはインタビューの中でこのように話している

「建築家になるつもりはないが、彫刻にとってスケールはとても重要。スケールを通して観客は作品と対峙(たいじ)し関係を持つのです」

http://sankei.jp.msn.com/life/news/110712/art11071208060004-n1.htm

カプーアの作品はどんどん拡大する傾向がある。彫刻としての作品から、作品を通して観客に「体感させること」が重要になってきているように思える。


また、授業時のディスカッションの中には、サイズを大きくしたことによって、初期の作品よりもかえって作品のスケールを小さくしているのではないか、という意見もでた。
初期の顔料を使った作品は、人を惹き込む深い色合いからブラックホールのようななんとも言えない空間の広がりを想像させる効果がある。


日本で見られるアニッシュカプーアの作品
金沢21世紀美術館
http://www.kanazawa21.jp/data_list.php?g=30&d=5
立川のファーレ立川(安田火災ビル北側) 「山」 など


-------------------------------------------------
授業のプレゼンでは、アニッシュカプーアのスケールの変容について取り上げ、自身の作品について少し触れました。
私は版画専攻で、作品制作時に、小さい試作品を作り、本番の作品の時に拡大するという手法を良くとります。
版画にかぎらず、ドローイングから絵画におこすときも、このようなことはよくされていると思います。

版画は、本来情報伝達手段(メディア)であり、多くの人に伝えるために大量に印刷することが目的とされていました。それゆえに、版画の複数性を保つためにも小さいサイズのものが、主流とされていました。
今日、テレビやインターネットなど、様々な情報伝達手段の発達により、メディアとしての版画の役割は終わり、現在は美術の一分野として扱われています。
複製芸術である版画という位置づけから現代アートとして確立させるために、タブローと同様の大きな版画を作られたり、版表現としてとらえ、立体やインスタレーションの方向に進んだり等現在版画は色んな広がりを見せています。
版画の技術や工芸的な美しさ、複数性、間接性といった版画の特性と、表現としての版画というのは私の制作のテーマでもあります。

私は今、「時間」や「記憶」をテーマに制作をしています。
それらの作品は来週からはじまる修了制作展において発表する予定です。
今回、スケールをテーマとした、幅が4mある版画作品を制作しました。
これはカプーアと同様に観客者に対して、作品を通して、作品の物質感や時間の流れを体感してもらうことを目的とし、このサイズで制作しました。

時間があったらぜひご覧下さい。

武蔵野美術大学卒業修了制作展
1/19-22 10:00-18:00 美術館展示室4

ユーリー・ノルシュテインについての日訳

油絵学科 院1年 亀山恵

ABOUT YURIY NORSHTEYN
Yuri Norstein, who has been working for years under the veteran Russian animator Ivan Ivanov-Vano, has emerged as one of the world’s leading animators. His film, The Tale of Tales , was considered the most artistic production to come out of Eastern Europe in years. The success of this film, as well as others such as Hedgehog in the Mist , The Vixen and the Hare , and The Heron and the Crane , is due to his unique style of multidimensional figures and backgrounds that have depth, roundness, and shading, giving a visual quality to his scenes seldom seen in other films. His humor is full of human observation, contrasting emotion over a broad scale from gaiety and laughter to sadness and disappointment. The fact that these moods are happening to animals and birds with their own particular environment provides an element of magic, and once again proves that the art of animation can bridge the biological barrier between human and animal worlds.

screenshot_01-300x223.jpg

taleoftales02-300x223.jpg

Norstein recognizes that a film is composed of various elements. It contains myth, fantasy, cosmographic ideas, sound, absolute realism, and naturalism. The combined quality of these elements could be of great value, lifting animation above all other media, but so far he has not seen any film, short or long, able to make full use of such total potentialities. He holds that a feature-length film should not only tell a story but present the richness of human life, make full use of the specific properties of animation, and look for its own way of development.

taleoftales04-300x226.jpg

taleoftales08-300x226.jpg



Despite its simple beauty, “Tale” was not made with children in mind. In the sequence imagining the huge losses Russia experienced in World War II, couples dance to the famous tango “Weary Sun.” Every time the old record skips, one man disappears from the frame and then the women dance alone.
Norstein says “Tale of Tales” is a film about the way memory is conjured up. He says the role of the artist is to allow people to “experience life yet unlived. This is the most significant thing we can get from art.”




tale-of-tales.jpg

ノルシュテインについて
ユーリー・ノルシュテイン(ロシアのベテランアニメーターであるイヴァン イヴァノフ ヴァノのもとで何年も働いている)は世界をリードするアニメーターのうちのひとりとして現れた。彼のフィルム、「話の話」は旧体制の東ヨーロッパから出現したもっとも芸術的な作品としてみなされた。成功したこのフィルムは「霧の中のハリネズミ」「キツネとウサギ」「アオサギとツル」のような他の作品と同様に彼のユニークな手法である画像と背景がもつ深みや完全さや陰影づけのために、めったに他のフィルムの中で見ることの無い視覚的なクオリティーを彼のシーンに与えている。彼のユーモアーは人間観察に満ちあふれていて、陽気さや笑いから悲しみや失望への広大なスケールで超える感情を対照的にみせている。
これらの雰囲気が独自の環境を持った動物や鳥たちにも起こっているという事実が、魔法の要素を提供し、それがまた、アメーションという芸術は人間と動物世界との間の生物学的な境を超えることが出来ることを立証する。


ノルシュテインは一本のフィルムが様々な要素で構成されていることを、認識しています。それは、神話、ファンタジー、宇宙構造的な考え、音、徹底的なリアリズム、そして自然主義を含んでいる。これらの要素が結合した特性は素晴らしい価値になり、すべての他のメディアより上にアニメーションを引き上げる。しかし、長くても短くても、このような全体の潜在力をフルに使うことができるようなフィルムをこれまで彼はみたことがなかった。彼は長編フィルムはひとつの物語を語るだけでなく、人間の人生に豊かさを与えるべきだと思っている。アニメーション独特の特性をフルに使い、その独自の発展法を模索している。


シンプルな美しさにも関わらず、「話」は子供達を念頭において作られていない。第二次世界大戦において、ロシアが経験した莫大な喪失を想像させる場面で、カップルたちが有名なタンゴの「weary sun」を踊る。古いレコードの針が飛ぶたびに、一人の男性がフレームから姿をけし、それから女性は一人でダンスする。
ノルシュテインは「話の話」は、記憶というものが、いかに魔法にかけられるかについてのフィルムであると言っている。彼は芸術家の役目は「人々にまだ生きてない人生を経験することを許すことだ。これは私たちが芸術から得られるもっとも重要なことである」と言っている。




上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。